米ソニーミュージックとは

米ソニー・ミュージックは、大手レコード会社である。傘下に「コロムビア・レコード」「エピック・レコード」「ソニー・クラシカル」などレーベル8社を抱えている。

ビリー・ジョエル、ブルース・スプリングスティーン、シャーデーら著名ミュージシャンと契約している。

アンドリュー・ラック氏の半生

大学で演劇を専攻

2003年に米ソニー・ミュージックのCEOに就任したアンドリュー・ラック氏は1947年、ニューヨーク市に生まれた。劇場が集まるニューヨークで育った若者によくあるように演劇に興味を持った。

ボストン大学で演劇を専攻した。卒業後はパリに1年間留学した。帰国後の1970年にコマーシャルの製作会社に入社した。

報道の道へ

1976年に米CBSニュースに転職した。報道番組のプロデューサーとして頭角を現した。

「60ミニッツ」のプロデューサー

1977年からCBSの看板ドキュメンタリー番組である「60ミニッツ」のプロデューサーになった。ボート難民を扱った「ザ・ボートピープル」、ベトナム帰還兵の再会を描いた「ア・ベトナム・リユニオン」など社会派の番組を数多く制作した。

エミー賞を10個受賞

ラックの手がけた数々のドキュメンタリー番組は米国の放送業界で最も権威があるエミー賞を何度も受賞した。

ラック個人としてはエミー賞を10個獲得している。

CBSでハワード・ストリンガーの同僚

このころ同僚だったのが、後にソニー全体のCEOとなるハワード・ストリンガーだった。ストリンガーもCBSの報道部門で働いていた。ラックの直接の上司だったこともあった。

CBSでは1983年に35歳の若さでエグゼクティブプロデューサーに昇格した。その後自分で新番組もスタートさせた。

NBCに移籍し、報道部門のトップに移籍

ラック氏は、ゼネラル・エレクトリック(GE)傘下のNBCに移籍した。1993年4月に報道部門である「NBCニュース」の社長に就任した

カリスマ経営者だったGEのジャック・ウェルチ会長自身の面接によって採用が決まった。

視聴率ナンバーワンに

ラックがトップになった前年の1992年12月期、NBCの報道部門は赤字だった。しかも3大ネットワークの一角でありながら視聴率は上位2社から大きく引き離されていた。NBCの3つの看板ニュース番組は1つとして視聴率でトップに立てなかった。

そこで入社から2ヶ月でラックが考え出したのは、周囲があっと驚く手法だった。当時、ニューヨーク中心部のGEビル3階に入っていた看板ニュース番組のスタジオを観光名所であるロックフェラーセンターの1階に移そうと言い出したのである。ガラス張りにしたため周囲からよく見え、観光客の注目が集まった。

こうした取り組みにより、NBCは視聴率ナンバーワンになった。

「CNBC」や「MSNBC」を設立

さらに、CNNとの合弁で経済専門チャンネル「CNBC」を設立した。

その後、マイクロソフトとの合弁で、ケーブルテレビとインターネットで24時間ニュースを放映する「MSNBC」を設立した。異業種との競業という大胆な戦略が話題になった。

参考:https://www.jcomwest.com/stv/Pages/chiiki/08_sukoyaka/2058.html

NBC全体の社長に

2001年にはNBC全体を統括する社長兼COOに昇格した。直前の2000年には、NBCの報道部門は3億ドル(約360億円)の黒字を出すまでに成長していた。

「ジャック・ウェルチ氏の秘蔵っ子」

ラック氏は「ジャック・ウェルチ氏の秘蔵っ子」と呼ばれるようになった。

ウェルチは自伝において、ラックについて、以下の通り絶賛した。極めて高い評価である。

「スカウトのためにインタビューした中で最もエキサイティングだった人物は、アンディ(アンドリューの愛称)だった。彼はこれまでに会ったことのある放送業界のリーダーたちとは完全に異なっていた。ユーモアがあって、自発的で、しかもエネルギッシュだった。完全に魅了されてしまった」。

ソニーミュージックが赤字転落

一方、ソニーミュージックは1990年代後半まで好調だった。収益も黒字が続いていた。

ソニーの音楽事業の売上高は6000億円。その約4分の3を米ソニー・ミュージックが稼ぎ出していた。残りを日本のソニー・ミュージックが占めた。

しかし、2002年に入ってから、音楽事業は急激に悪化した。2002年4~6月期だけで102億5200万円の営業赤字だった。7~9月期には56億2300万円の営業赤字となった。

不調の原因は売上高の4分の3を占める米国だった。インターネットから音楽ファイルをダウンロードしたり、パソコンでCDをコピーしたりして音楽を楽しむ人が増えていた。ヒット作の欠如も深刻だった。

ハワード・ストリンガー

米国ソニーを統括していたハワード・ストリンガーと、米国ソニー・ミュージックCEOのトーマス・モトーラの関係は悪化していた。

モトーラは14年間という音楽業界でも異例の長さでソニー・ミュージックのトップに君臨してきた。

モトーラの年収は、ボーナス込みで2000万ドル(約24億円)を下らなかった。30億円を超す豪邸に住み、常にボディーガードの一団を引き連れて行動していた。移動は防弾ガラスつきの最高級のメルセデス・ベンツだった。

そんなモトーラは、生真面目な英国紳士であるストリンガーを嫌っていたという。

スカウト

こうしたなか、ストリンガーは、テレビ局時代に部下だったラックをスカウトした。

ラックは、テレビ業界で出世街道をひた走っていた。しかし、NBCの会長であるロバート・ライトと対立するようになっていた。

ソニーミュージック会長就任後のリストラ

アンドリュー・ラックは就任後、短期間に音楽事業の社員の約3分の1に当たる1000人を削減した。年間4億ドル(約420億円)のコスト削減を実行した。

音楽業界では素人

ラックは音楽業界では素人だった。

人気ミュージシャンと強い信頼関係を築いている優秀な幹部たちが、よそ者がトップになることで相次いで退社する恐れがあった。10年以上の長期政権だったこともありモトーラの子飼いがソニー・ミュージックの経営幹部のほとんどを占めていた。

GE流の経費節減に成功

結果的にこうした心配は杞憂に終わった。数字には強いが音楽事業には素人であるラックは、ミュージシャンの発掘と契約、マネジメントなどを経験豊かなプロに任せる方針を取った。従来の経営陣を大事にする姿勢を鮮明にしたことで、ほとんどの有力幹部はそのままソニーに残った。

幹部の引き留めに成功する一方で、GE流の経費節減に取り組んだ。

動画

アンドリュー・ラックがブルームバーグのメディア部門のCEOだった時代のインタビュー。